差別されていた人との共生

わたしは1958年生まれで,小学生時代が1960年代である。小1で東京オリンピック,中1で日本万国博覧会。高度成長時代だが,日本はまだ貧しかった。井筒和幸の『パッチギ!』の世界である。便所も水洗ではなく,駅には「痰壺」があった。家に風呂もない(これは1980年まで続いた)。育った場所は,体よく言えば中心市街地。その実は貧しき人たちが肩を寄せ合って住む地域である。任天堂のトランプの「針子」(この場合は「貼り子」)で食べていた人もいる。

国道を隔てた場所に「被差別部落」があった。町内では「在日朝鮮人」(「朝鮮」は国籍ではなく民族)がマジョリティ。幼児期の遊び相手の大多数が在日だった。通っていた幼稚園を経営する教会には当時,小さな孤児院が併設されていた。祖母の家がこの教会の隣だったこともあり,孤児院の子どもともよく遊んだ(というか遊ぶように,シスターに頼まれた)。「みなし児」*1だからといって,希望を失っていなかったと思う。社会がまだ「上昇期」にあり,チャンスがあったからか。実際に,この孤児院の遊び仲間がさる篤志家に養子にもらわれていき,わたしと同じ高校に進学し国立大学に進み,今は某有名企業のプロフェッショナル・エンジニアである。今の年収はわたしより上だろう(^^;)。

この話,実は何のオチもない。そういう生育環境だからこそ,いろんな人たちの立場への想像力が培われた面がある。だからといって,偏見がゼロかといえばさにあらず――というのが悲しいところ。言われなき偏見や差別ではなく,自らの痛みを伴った嫌悪感といったほうが正確か。日本で差別にさらされている人たちにとって,身近に接する日本人は,差別への不満・反感をぶつける格好の標的になったということである。相手も辛かったのだろうから,恨んではいないけれどね。

*1:身無し子:捨て子を含めた親のない子ども