第12回

銀行の護送船団方式,主要製造業の経済産業省による「国策的調整」など「経済の1940年体制」は1990年代にバブル経済崩壊とともに,かなり弱まった(その象徴は「日本興業銀行」の経営破綻だろう)。しかし,メディアの世界には「1940年体制」が根強く残っている。1940年体制全体を牛耳ったのは電通(同盟通信社)である。一県一紙は確かに「自発的」な連合であり,用紙不足に対応したものだった。しかし,検閲が容易になるという国家側の都合を否定できない。そして,戦後,物資供給が回復しても,一県一紙からの脱却が図られなかったことからも,この体制は新聞社にとっても都合が良い仕組みだったと言える。(授業では触れきれなかったが*1テレビ事業も新聞社の「権力」を拡大する手段として機能したことは言うまでもない)。
「メディアの1940年体制」は自律的な要素では壊れない。ネット・メディアとの覇権争いなど,外発的要因によって,メディアはようやく「1940年体制」の脱皮を迫られつつある。

1940年体制―さらば戦時経済

1940年体制―さらば戦時経済

音楽を動員せよ―統制と娯楽の十五年戦争 (越境する近代 5)

音楽を動員せよ―統制と娯楽の十五年戦争 (越境する近代 5)

日中戦争(盧溝橋〜南京入城)

■『麦と兵隊』

■『九段の母』

■『誰か故郷を想わざる』

■『蘇州夜曲』

■『明日はお立ちか』

■『若鷲の歌』

■『お山の杉の子』

■『異国の丘』

■『岸壁の母

※シベリア抑留については,ネット上に「抑留記」があふれている。国際法違反で日本人が被害者になったケースだが,ロシアは謝罪せず,日本でも補償されず,「戦後はまだ終わっていない」。日ソ中立条約の「一方的廃棄」によるソ連参戦だった。講和条約を結ばず,平和条約も店ざらしだから,北方四島だけでなく,南樺太・千島列島も「係争中」ととらえるべきだ。1945年9月に入っても停戦しなかったソ連軍は(ポツダム宣言違反ではないものの)「非道」なる軍隊である。親戚二人がシベリア抑留で死亡していると,この種の発言が妙に「右翼的」になるから不思議である。他の戦争被害(むろん加害)以上に,シベリア抑留をわれわれは語り継ぎ,「戦争被害者」としてロシアとの間の交渉を続けていかねばならない。

*1:3年次後期の「コミュニケーション・メディア史」で触れる