mixiの公共性とは?

mixiのページトップにバナー広告がない

東隣の研究室の住人さまのエントリーにならって,西隣の研究室の住人さまのエントリーを擁護してみる(^^;)

mixiというサービスそのものを「公共的存在」として規定できるか――。コミュニティのインフラ,社会関係資本を維持・形成・発展させる場として,SNSに「公共性」が存在しうる可能性があるのは確かだろう。

量が質を規定するわけではないが,ユーザーが1000万を超えた今が,mixiの「公共性」を云々すべき時期なのか。その点が疑問である。

mixiの市場支配力は永遠とは限らない。たしかにSNSはある段階から「ネットワークの外部性」が作用し始め,あるサービスが独り勝ちになりやすい。しかし,競争は常に続く。魅力的な対抗者が現れると,ユーザーが一気に移動することはありうる。そのため,mixiも新サービスの開発・投入を急ぎ,広告主にも魅力的なプランを用意しようとする。

その「広告」があまりにウザいし「下品」だと思う人は,それでもmixiを使い続けなければならないほどの「拘束性」「不可避性」があるのか――。mixiが「それを利用しないと不便な社会状況が生じ」るほどの存在かどうか。もっと魅力的なサービスが開発されると,ユーザーはアッという間に移行してしまうはずだ。

民間放送にも「公共性」が存在している。だから,広告枠にも一定の歯止めをかける自主規制(放送基準)を作っている。もちろん,視聴者の苦情などが累積して形成された放送基準だ。SNSで同様の議論がもちろんあってもいい。ただし,それはSNSの経営と折り合える範囲だし,一利用者のクレームで決められるべき問題ではない。

SNSが「公共物」だと認知された段階で,経営者とユーザー団体とが話し合って,広告の扱い方を決めていくのが,最も正しい自主規制の合意形成方法ではないのか。