私の『2001年宇宙の旅』論(前編)

redtail27332007-06-08

2001年宇宙の旅』を最初に観たのは1969年。小学6年生のとき。友だちと70ミリの大スクリーン上映館に観にいった。シネラマで観るには大阪まで行かねばならず,70ミリで手を打った。

意味はほとんどわからなかった。だけど,寝なかった。主にダグラス=トランブルの特撮技術に魅せられ,落雷に打たれたように,座席から動けなくなった。そして,友だちは帰ったが,一人で2回目の鑑賞に突入した。相変わらず意味はつかめず。

次に観たのは1978年。大学3年生のとき。また70ミリ上映館。新聞学(メディア論)専攻の学生として,それなりに感じるところがあった。

もちろん,この映画は道具(メディア)と人類との関係を描いている。しかも,宿命論的にだ。運命論的ではない(江原啓之みたいだが)。宿命だから逃れられない。われわれは結局,大いなる意思の下で宿命的な進化を遂げさせられているにすぎない。

その宿命がキリスト教的だとは思わない。「釈迦の掌の上で踊る」という仏教的宿命感もある。幸福の科学が作っている映画(『永遠の法』など)は『2001年宇宙の旅』の劣化コピーでもある。『2001年宇宙の旅』は日本のカルト宗教の原点でもある。

とはいえ,その宿命もHAL9000(コンピュータ)との格闘のなかで覆されることになる――。(つづく:いつ書くかは未定)