二つまとめて封印しちゃった?

今の50歳以上の大学教員には,学生運動の思い出と持論が百人百様にあるはずです。しかし,あまり公に語ろうとはしません。学生諸君にはぜひ「聞き書き」を薦めます。以下は,redtail2733の問わず語りです(「ユースカルチャー論」や「メディアとコンテンツ」〈学際科目〉では語ってきたことですが)。(以降は常体で)*1

学生運動キャンディーズも等価

1978年春,20歳,大学2年から3年になるころ。3月に三里塚(成田空港用地)へ援農に行った。3泊4日にすぎないが。組織的動員ではなく,「面白そうだから」行った。3月26日,成田空港の管制塔占拠事件が起きた。同日,京都でも「3.26成田空港反対闘争後方支援集会とデモ」があり,組織的動員された*2。デモはいつも「面白かった」。だけど,当日は逃げ方がマズかったうえ,派手に抵抗したため,公務執行妨害でパクられた*3。4月上旬,傷心の山旅(由良川源流)をした(^^;) そして,4月8日。友だちと後楽園球場に行き,キャンディーズ解散コンサートで熱狂し,涙した。あー,麗しき青春。学生運動とミーハーでアホな活動は,当時の私の中では等価なものとして存在していたのだ。

大学の自治が原点

所属していたのはいまも残る「新聞学研究会」。専攻内の学生自治団体で,組織的には全学自治会の下部組織だった。全学自治会内部では新左翼セクト間の覇権争いがあったが,下部組織の大多数はノンセクトノンポリ。成田開港/田辺移転の反対闘争が全学自治会の重要テーマで,それらの活動については「参加要請」がきていた(動員ノルマはなかった)。
70年代後半の関西の大学は学園紛争の残滓があると同時に(バリケードストライキで後期試験を中止に追い込んだこともあった),学生運動が生み出した「学生による大学教育改革=学生による自治」の考えが色濃かった。学生主体に「自主ゼミ」を開催し,OBや教員をアドバイザーとして招いた。また,カリキュラム改革も先導していった。全学年に少人数の「基礎ゼミ(演習)」を作ったのも,「新聞学研究会」メンバーと専攻教員との間の粘り強い「交渉」の結果だった(ちなみに,「同研究会」への参画は学生の自発的意志による)。紀要出版助成などの予算も専攻から獲得していた。

反乱とともに学生自治も抑え込まれた

webやmixiでみる限り,同志社にはこの「学生自治」の考え方が今日も継続しているらしい。むろん,大文字の政治的闘争とは切れているだろう。
だが,他の多くの大学は,70年代後半以降に学生自治会がどんどん形骸化していった。静岡大学も例外ではないという。学園紛争の反作用として,学生による反乱を抑えるのと同時に,学生による自治も大学側がスポイルしていった形跡がある。牙を抜くこと(学生の反乱を抑え込む)に大学側が懸命になったあまり,生きる力(学生の自治能力)まで喪失させてしまった感が強い。一方,学生側もすっかり教育サービスの消費者となり,自らが大学自治の当事者であることを忘れがちである。
もちろん,私たちの活動が,大学教育の一種の下請機関だったことは否定しない。だが,現在ではその下請機関さえ(新歓や大祭を除くと)どれだけの学生が能動的に参画しているかは疑問である。学部自治会結成の機運が盛り上がりながらも,それがなかなか実を結ばないのが歯痒い。といって,自治に関わる事柄だけに,教員たちが助力するのも筋違いな気がする。このジレンマ。

*1:このエントリーは一義的に,池田信夫blogのコメント欄に投稿している平宮康広というアホに向けて,以前に書いた文章に加筆したものである

*2:おかげで“遊び”が目的の海外旅行で〈それ自体が2回しかないけど〉成田空港を利用する気にはいまだになれない

*3:一泊の留置と説諭で帰されたが,公安的には「前科一犯」であることを,その後の警察とのさまざまな関係の中で知ることになる